第一話 オルタナティブ・スピカ

 66年前の6月に、本州の大半を担っていた企業の発電所が謎の大爆発によって機能を無期限停止し、6年ほどの夜が夜として君臨する暗黒時代と呼ばれる絶望があったことはもはやこの国の常識である。あれから、あらゆる生活に必須な要素を預かる施設は小さく分けられ、一つが壊れてもなんとかなるという状態になって、きっと二十一世紀からは考えられないほど都市は縮小化し、田舎は開拓が進み、良くも悪くもどこへ行っても同じ景色だ。各地方の特色と言うものはほとんど無くなって日本は日本と言う一つの地域になったのだ。それを諸外国からは残念がられていて、面白みのある文化が無くなってしまったと言う皮肉も込めて暗黒時代の爪痕とも言っているらしい。

 しかし、そうではないのだ。暗黒時代と言われるだけの暗黒が、星明りではどうにもならなかった、およそ人間では生み出せるわけがない、そしてどうにも出来ないだけの暗黒があの六年間に現れたのだ。偉い人が隠蔽せざるを得ないあれらは常識的都市伝説となっている。僕らは、それをドゥーム(魔法のような科学)と呼んだ。


 命の危機だ、と言うことはわかる。そしてこれが果で底だ、とも思うし、故に死だ。あんなのどうやって、どうすればいいと言うんだ? 虫が這うような音と石壁を貫く鋭い音は同時に近づいてきていて、僕は意味もないのに息を殺している。

 色んな場所が平均的になってしまったとは言っても、有人か無人かの違いはあるし、もう直しようがないところは傷を剥きだしにしたまま風化を待つように置き去りにされている。ここはそういう場所だった。かつては繁華街だったと言うこの町はやけに広くて、どれだけ賑わいがあったのかと言うのが、もう光ることのないカラフルな看板の数や一つ一つのビルの高さでわかる。僕にはあんまり馴染みはない、それもそうだろう、街がドゥームによって営業不可能に追い込まれた当時僕は8歳、そんなところを歩いて居ようものなら悉く犯罪に巻き込まれている。でも、おばさんがここで水商売をしていて、ここでなにがあったのかを語ってくれた。

 ―――路地裏のあちこちから、溢れるように影が伸びてきたらしいの。その後ゆっくり壁を伝っていったのだと思うけど、夜だし、暗い場所だから、誰も気が付かなかったのね。誰かが大きな電光掲示板に向かって、あっ、て言ったの。電光掲示板の端が欠けているのをみんな見たし、その途端にほとんど全ての明かりが影に覆われて、なにも見えなくなってしまった。みんなどよめいていて、悲鳴が聞こえたのもすぐだったわ。足元が揺れたの。水が満ちていくような揺れだった。それは水じゃないとわかったのは水位が足首まで来たときだったかしら、生暖かくて、ぬかるんでいて、べちゃって何かが当たるのよ、そこまでわかったのを見ていたかのようにパッと明るさが戻ってきた。そうして赤い血が一面に広がっていて、何人かの残った人たちだけが私と同じように立ち尽くしていて、もう叫ぶことも出来ずにとにかくどこかへ逃げようとしたのよ。血の海に足を取られながら街の外を目指して必死に走った。気が付いたら私は病院に居て、錯乱していたところを保護されていた。他の人はどうなったのかしら……。

 おばさんはその時すでに別の繁華街で働き詰めていたけれど、翌年に違うドゥームに巻き込まれて死んでしまったと言う。だから、その話を聞いたきり会えなくなってしまったわけだ。話してもらって良かった、ドゥームを口に出せばドゥームを呼ぶ、と言うのはドゥーム自体と合わせて常識的都市伝説でなかなか話してくれる人が少ない。しつこく聞けばまるで不審者を見る目だ、僕は昔からそれを痛感している。誰か助けて。

 ……そんなわけで、これは僕が招いた結果なのかもしれないし、おばさんの言っていたドゥームがここにまだ残っていたのかもしれない。誰か助けて。しかし本当に影なんだな、いつの間にか僕から見た街の右側はシルエットで穴を開けたように建物が真っ黒になっていて空との対比が恐ろしいほどで、しかも時々脈打っているのが、私は生きているんだとでも言いたげで気味が悪かった。そう気が付いたと思えばびゅうと壁を突き抜けて影が僕の頬を掠めた。誰か助けて。当然ながら僕は逃亡の選択を取るのだけど、やっぱりというか、追い詰められている気がする。どんどん街の中央に来ていると思う。誰か助けて。このまま出口まで走れるだろうか、と前向いた瞬間に目の前を塞がれて進む道は狭くなっていった、嗚呼、これは行き止まりになってしまうな、嫌な予感しかしなかった。誰か助けて。もはや空は細く切り取られ、半分ほどを覆われている。埃っぽく壊れていないのが不思議な壁に挟まれながら、しかし僕はとうとう足を止めた。ボロボロになったフェンスだけなら、まだどうにかしようと思ったけれど、その前に首や四肢が満遍なく欠けて、上半身と下半身を丁寧に分けられている屍の山を積まれているのを見ると嫌悪感と絶望で足が竦んだ。酷い有様だ、と。これはきっと人間の仕業じゃないし、延いてはこの影のドゥームのせいだと思った。僕を追い詰めるための場所に街中の死人をかき集めた、こんなのは残虐非道であんまりだ。僕が、この人たちが、人間が、なにをしたっていうんだ。誰か助けて。誰か助けて。誰か助けて。


「大丈夫かなお嬢さん」


 流動していた、悪いものを孕んでいた空気が穏やかに止まっていた。時間が止まったのではないというのは、なにかの衝撃によって崩されるように宙を舞って道を開けた障害物の落下でわかる。きっとドゥームが僕に対して無情な一撃を飛ばしてきたのだ、と崩壊していく瓦礫が教えてくれた。もう使われなくなって久しい室内が暴かれて、非現実のような派手な床の色が途端に広がっていた。ここは捨てられた街の中心で行き止まりじゃなかった。

「危なかったね、間に合わなかったらどうしようかと……首が落ちなくって良かったね」

 不思議と心が落ち着く声をしていた、彼女は。一拍置いて僕は振り向いて声の主を確認した、何故こんなところに人がいるんだと疑問視する目玉は不躾にその彼女を見つめ続けた。女性だ、黒で纏めたレザージャケットのパンツスタイルに、簡易な金属のプロテクターを取り付けたブーツが重たそうで、強い風に浚われそうな彼女の細い体を繋ぎとめている杭だった。特別珍しくもない恰好を途切れ途切れに理解しながら、僕が目を奪われたのは風に揺れる赤い髪だった。

 赤い。甘美なる原罪の色だとも思ったし、叡智を与える熱の色だとも思った。経験を得た成熟の女性が引く紅の色でもあったし、年端もいかぬ少女の恥じらいの頬の色にも見えた。そういう美しい赤である。こんなに記憶に刻まれる鮮やかさがあったなんて知らなかった。僕と彼女の世界は半球に切り取られている。

「えっ、なに、なんですかこれ」

「おっと、少年だったのか。これは失礼」

「いや、それは別に、そうじゃなくってあの」

「この衝撃閉鎖球は長く持たないから、とりあえず短く説明するけど」

 透明な結界が僕らを守ってくれていて、ドゥームは恨めしそうに覆い被さっているが侵入は出来なさそうだ。それを彼女は衝撃閉鎖球……と言ったのか。なんにせよこれだけ近いと、やっぱり怖いんだけど。怖くて、尻餅をついた僕に目線を合わせるように屈んだ彼女にぶつけるように叫ぶ。

「どうして! どうしてここに人が、いや貴方は人なんですか?! もしかしてドゥーム、なんじゃ!!」

「ドゥームではないな。私は魔法使いだ」

 魔法使い? 僕が思い浮かべたのはローブと三角帽を着込んて短いスタッフを持った彼女だった。一般的な魔法使いのイメージって、こうだと思うんだけど。唐突な幻想的な単語に驚いて2回瞬きすると、彼女は笑っていた。笑いながら、いつの間にか嵩張るほどの布を使った優雅な星空色のローブと先端に赤い宝石を付けた細身のスタッフを身に着けていた。一体なにが起こったのか、夢でも見ているのかと辺りを見渡しても相変わらず半球に移動を遮られるドゥームが波打つ景色が広がっていた。彼女以外は非現実的な現実だった。

「わかりやすいな君」

「わ、笑ってる場合じゃないです!ドゥームがこんな近くに!!」

「そうだね、じゃあ私の話を聞いてくれ。私の話についてきて」

 女性がスタッフをくるりと振ると、きらきらしたなにかが流れていって、やはり瞬きの内に元の服装に戻っていた。頭部まで包み込んでいた布がなくなって、燃えるように髪が揺らめく。真剣な眼差しは銀の剣のように僕を射抜く。

「私は魔法使い。少年が助けてと願ったから、叶えにきた」


「少年が殺されたくないと強く願ったから、私はここにいる」


「私はどんな願いでも叶えられる。私は願われることに特化した魔法使い」


「でも私は一人じゃ魔法が使えない。だから少年の力が必要なんだ」


「少年、願って。あのドゥームを打ち払うために」


 僕はもう一度、助けてと呟いた。


 ぱきん、と弾ける音。結界が壊れたことは上空から確認して知った。先程まで僕たちがいた場所に黒い影が流れ込んでいくけれど、手応えが無いことがわかると流動の向きを大きく変えていくつかの点から突起を伸ばして空を捕まえようとしてきた。それらを躱し、躱し、ふわりと羽が一片落ちていくと光の波動となってドゥームの一部を消し飛ばす。僕は自分を抱きかかえて宙を舞う存在を見て、心臓を緊張させた。蜜のように甘く淡い色合いの金髪が長く風に吹かれて、柔らかく切り揃えられた前髪、天使の翼みたいにぱたぱたとなびくサイドの小さなツインテール。まっすぐ前を見据える瞳は大きく、全ての女性が憧れる綺麗なピンク色だ。肌は人形のように艶やかで柔らかで。フリルとレースをたくさん使ったスカートは飾りのリボンが控えめに揺れていた。華奢な肩と腕を見せてはいたが、大きめのパフスリーブが二の腕を隠していたし、立ち襟のノースリーブのシャツにもひらひらした装飾がついていて優雅だ。そして背中には一対の翼、この女の子は少なくとも僕にとっては世界で一番の女神だった。……もう少し個人的な見解を述べると、僕の大好きな女の子だった。

 彼女は僕を、まだ壊れ無さそうなビルの屋上に避難させてくれる。細い腕が離れていくのが名残惜しくてつい手を伸ばすと、そっと握り返してくれた。輝くような笑顔が一抹の不安を拭い去っていく。

「心配しないで、大丈夫よ!」

 花が咲くような美しい声。なにか返したかったのだけど、名前を言おうとして、この名前では無いと思い直して、それからあの女性の名前も聞いていないことに気が付いて、そもそもこの少女があの女性で……いいのかな? 同一人物なのか? と考えているうちに少女は翼で街を飛んで行ってしまった。街の中心部は立体的な穴が出来たように闇が広がっている。

 ドゥームはやはり少女を掴むように動いた。黒い海から柱が突き出して彼女を貫こうとするけれど、少女はそれよりも高く舞い、雲を一つ引き裂いてから下を眺める。唇が異世界の言葉を呟き、ふわりとスカートに空気を含ませながらヒールの先を輝かせた。僅か桃色の光が円状に、いくつもの図形の並びと読み取れない文字の羅列にあるいは意味のある印に、いわゆる魔法陣として広がっていった。彼女を中心として半径3メートルにまで膨らむと、力を込めたように腕を振り下ろす、向かって地面に。衝撃波は鋭く目下のドゥームを消滅させ、どこかのライブハウスの残骸を剥き出しにした。もう立つことも難しそうなステージの上に少女がそっと降り立つ。ばさり、翼が彼女の体躯を上回るほどに大きく伸びていき、周囲に光の羽を散らばせた。降り注ぐ羽の中、彼女は祈りのように手を胸の前で握りしめた。ドゥームに近付かせる隙すら与えず、数えきれないほどの光が闇を焼いていく。弾けるように悪意は数を減らし、もうほとんど撃退出来たのではないかと思われた。その時、少女がこちらを見て目を大きく見開いた。

「危ない!」

 僕は危機を孕んだ声に思わず後ろを振り向く。少女の華麗な動きに見入っていて、背後にドゥームがいることに気が付かなかった。血の香りを含み湿り気のある暗雲が僕に降りかかろうとしている。こんなときに限って人の目と言うのは瞼を閉じれないものなのだと思ったが、痛みが届く前に視界が暖かな光で遮断された。甘い花の匂いだった、頬をくすぐる柔らかい感触がそれが少女の翼なのだと思わせた。直後、守るように背中から僕を抱きしめる少女。光を隔てた少し向こうで判別を拒みたくなるほどの悲鳴が聞こえた。ドゥームも、こんな泣き声をするのか。ぼんやりとそんなことを思いながら僕の体は再度宙に行き、今度は街の隙間を縫うように低空飛行をする。一瞬だけ追ってくるドゥームを見た。もうビル一つ分の大きさだったが、それでも僕を殺すのには十分だろう。途中出くわした欠片の奴らも少女は躱し続けて、なんだか、わざと集めているのだと、思った。気付けば僕らは狭くて長い路地にいた。

「怖がらないでね、私を信じて」

 そうはっきりと笑顔で言った少女に、僕は慎重に頷いた。途端に、壁にぶつかり波打ちながら僕らの元へドゥームが流れ込んでくる。全部、全部だ。ここに今全ての影が僕らを食い潰そうとしている、なにかするならきっと今。少女はそっと僕の手を取り、指を緩く絡めあったまま悪意のほうへ伸ばした。手の中の空間に熱が籠り、硬くなっていくのを感じる。それは形を持ち始めて唐突に大きな杖として現れた、まっすぐ金で出来ていて所々に小振りな装飾、先端は優雅な台座に翼の金細工に包まれた丸いピンクの宝石がきらりと光った。ドゥームはあと何メートル、と言うところでその杖は温度を上げて光を集めていく。手を放さなかったのは少女に握ってもらえていたからだと思う。ついに、爆発のような一条の光が路地にひしめいていた全てのドゥームを焼き切った。怨念をそのまま音にしたような断末魔の叫びが聞こえたのは一瞬のことで、眩い光が薄暗い路地に溢れていった。嗚呼、心臓が早く打っている。怖かった、怖かったけどこの傍にいる少女への愛おしさでたまらなく叫んでしまいたい、激動は全て彼女が如何に強く美しかったかで埋め尽くされた。

「えへへ。これでもう大丈夫だね、お兄ちゃん」

 少女は柔らかく目を細めている。僕は、そこで意識を手放した。


 目が覚めると、簡素なベッドの上にいた。天井はボロボロで、高い位置にある窓から見えた空が青かった。頭だけを横に向けるとやはり派手な色の床があった。まだ繁華街のどこかにいるようだ。

「君よりも大きいから、お姉さんかと思ったんだけど。あの子妹なんだね」

 少し離れた場所にあの女性が座っていた。スツールを壁に寄せてもたれ掛かり、膝を組んでスマートフォンを弄っていた。なにをしていたのかは気になるけど、お姉さんだとか妹だとかの言葉にさっきの魔法少女を思い出した。

「そうです、僕の妹。大きくなったら、あんな風に美人になると思っていました」

「いました、か」

 女性は静かに目を瞑ってなにも言わない。

「妹……亜理紗って言います。七歳のときにドゥームに攫われたんです、それで、僕は亜理紗をずっと探してるんです」

 亜理紗がいなくなったときのことは、混沌としていた世界を鮮明に覚えている。僕たちは家族で遊園地へやってきていたのだ、仕事で忙しい父親の貴重な休日だったはずだ。そこで、ドゥームに襲われて混乱の中で親とはぐれてしまった。迷いながら観覧車にやってきたところで亜理紗が立ち止まってしまった。観覧車、と言うかそれに擬態していたドゥームがおどろおどろしい姿に変わりながら亜理紗に近付き、ぐるぐると回りながら彼女に手を伸ばす。僕は妹を助けようと手を伸ばしたけれど瓦礫が落ちてきて遮られてしまった。泣きながら亜理紗を呼び続けているうちに向こう側で亜理紗の声がした、「わかった」と一言だけ呟いた。

 その後、随分長い間放心していたようで大人たちに腕を引っ張られて我に返った。遊園地は惨劇をありありと残していて、流石に見せてもらえなかったけれど死体がたくさんあったし、精神が壊れた人があちらこちらにいたと言う。僕もその内の一人に数えられた。大人たちは僕の話を半分信じて、半分信じなかった。

「私のあの魔法はね、君が奇跡を起こしたいって気持ちも大事なんだけど、そういう気持ちを持たせてる女の子がいることも大事なんだよ」

 僕が思い出を再生していると、不意に女性が口を開く。その表情に同情は無く、ただ事実を述べているようだった。それはなによりも頼もしくて信じるに値するものだった。彼女は立ち上がり、僕の傍に座り直した。

「おそらく君の妹はまだ助けられる位置にいるんだと思う。彼女が諦めてしまっていたら、君も彼女に助けられたいと思えないから」

「……そうなんですか?」

「魔法はただの中間地点だから、本当に無事だなんて言わないけど。ただ少なくとも、死んでいても蘇生できる可能性は残ってる、確実にね」

「亜理紗は、亜理紗はまだ救える……?」

「勿論」

 一気に目が熱くなったかと思うと、堪える前にぼろぼろと涙が零れていた。寝そべったままだから、こめかみに涙が流れていく。女性がふっと息を漏らしたのが聞こえて、それからぽんぽんとお腹の辺りを優しく叩いた。亜理紗のことは、皆から諦めろと言われていた、死んでいるに違いないから探すだけ無駄だと。父さんも母さんも叱るようにそう言った。手がかり欲しさにドゥームを追って何度も危険な目にあった。でも、それでも諦められなかった、そんな僕がようやく肯定されたのだ。

「信じ続けなさい、少年。妹を助けたいなら強く信じると良い」

 僕は子供のようにただ頷いていた。僕の今までは間違っていなかったと他人に言われることが、こんなに落ち着くなんて知らなかった。

 帰りは既に夕暮れだった。市内とは言え、夕飯は少し遅くなってしまうだろう。携帯と財布、護身用に十徳ナイフを持ってきていたけど全然役に立たなかったな、などと思いながら持ち物を確認した。そう言えば女性はなにも持っていないと思ったけど、魔法使いだから僕らが考えるような心配事は無用なのかな? ……嗚呼、そういえば。

「あの、お名前、教えてください」

「名前?」

「僕、伏木国光(ふしぎ くにみつ)って言います。あの、また会えたらお礼したいです」

「別に気にしないでいいよ、魔法使いってこんなものだし……名前、名前ね」

「いや、教えたくないならいいんですけど」

「マヤだよ。マヤ・イナージョン」

 マヤ、と微笑んだ女性はちょっとだけ頬を赤くして、緩んだ口元が落ち着かない様子で、きりっとしていた眉は困ったようにしていた。肌寒い風に彼女の赤い髪が攫われると、ちょうど溶けて消えてしまいそうな儚さを感じる。そう、彼女もまた守ってあげたくなるような部分があるのだと思った。赤い空気に甘酸っぱさが漂って、まるで恋をしたらこんな感じなんだろうなと思った。それとも、もうしているのだろうか?マヤさんは綺麗だった。

「国光、ねぇなんだかまた会えそうな気がしないかな?」

 冗談っぽくマヤさんはそう言って僕に目線を合わせてきた。慎重に頷く。会いたいとか、会わなきゃとか、そういう気持ちの問題よりも凄く深い部分で……僕と彼女は、また会うのだと言う確信がどこかにあった。

「じゃあまた会おう」

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